2013年11月21日
「言語を絶する感動」の名著…『夜と霧』

『人に強くなる極意』がもの足りず、よって読書メモも書かなかったので、その後に読みました『夜と霧』も書いてしまいます。
私がこの本を知ったのは、仕事帰りに車の中で聴いた『麻木久仁子の週刊「ほんなび」』というラジオ番組でした。
早速amazonで注文し、読みかけだった『人に強くなる極意』を放置して一気読みしてしまった本です。
著者は、強制収容所から奇跡的な生還を果たした、ユダヤ人のヴィクトール・フランクル。
そこには、凄惨を極めたナチスによる強制収容所での生活が克明に描かれています。
しかし、この本が時代を超えて読み継がれて来た理由は、それが単なる告発本ではなく、「人間とは何か」や「人生とは何か」を問う内容のものだからです。
突然強制収容所に収容され、殴る蹴るの暴力を受けながらの重労働。
酷寒の中、ぼろ布のような衣類で食事もほとんど与えられず、家畜以下の劣悪な環境で生活させられる被収容者達。
日々仲間が死んでいく凄惨な現場で、人々の心はどのように変化していったのか…
著者のフランクルは、自らこうした過酷な毎日を送りながら、精神科医としての冷静な目で、これを分析していきます。
段階的な感情の変化の末に、行き着いた境地は…
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。
苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。
わたしたちはその問いに答えを迫られている。
考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。
究極の苦しみの中から得たフランクルの思想は、「どうしたら自分は幸せになれるのか」や「どうしたら夢を実現出来るのか」といった、自分中心の人生観から、「自分が生まれてきた使命は何か」や「よりよく生きるために自分がすべきことは何か」へと生きる構えを180転換することを求めています。
そんな『夜と霧』の読後感ですが…
読んでいる時には、現在さほど切羽詰まった悩みがないせいでしょうか、↑の言葉を理解するのが難しくて、実感として伝わってきませんでした。
しかし、読み終えてから、じわじわとボディブローのようにそれらの言葉が心に迫ってきて、また本を開いては一言一言を理解しようとしている自分がいました。
そして、本書が「言語を絶する感動」と評されることが、決して誇張でも何でもないことを実感したのでした。
私も人一倍悩んだ時期がありました。
その時に本書に出会っていたら、また自分の人生も違っていたのではないかとさえ思うほどです。
時代は変わっても、人の悩みは尽きないものです。
戦争中のような特殊な環境にあるわけでない、“平和な”日本では10年以上前から毎年3万人を超える自殺者が出ています。
自殺にまでは至らなくても「死んでしまいたい」と思ったことのある人や、深刻な悩みを抱えている人の数は、その何十倍、何百倍にもなることでしょう。
そうした人たちすべてに、是非読んでもらいたい本だと思います。
フランクルに詳しい臨床心理士で明治大学教授の諸富祥彦氏は次のように言っています。
フランクルの思想のエッセンスは次のようなストレートなメッセージにあります。
どんな時も、人生には意味がある。
あなたを待っている〝誰か〟がいて、あなたを待っている〝何か〟がある。
そしてその〝何か〟や〝誰か〟のためにあなたにもできることがある。
このストレートな強いメッセージが多くの人の魂をふるわせ、鼓舞し続けてきたのです。
現在大きな悩みを抱えている方はもちろん、そうでない方にも、是非一読されることを強くお奨めします。
私も、いつも手元に置いて、ことある毎に読み返してみたいと思っています。
最後に私が読み返している部分、↑の「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。…」の前段部分を抜粋しておきます。
(前段略)
かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが恐れるのはただひとつ。わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ。」
この究極の、そしてけっして忘れることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみによって証していたあの殉教者のような人々を知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。
その人々は、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。
彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。
最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息を引きとるまで、その生を意味深いものにした。
なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるわけではないからだ。
そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるからだ。
(後略)
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル (著), 池田 香代子 (翻訳)
